地方のかたすみでちょっと想う~HSPな視点から~

結婚して西日本のまあまあ田舎に住み始めました。 マイペースに地方の片隅で日々育児をしながら家事をしながら、想うことを健忘録的にかいてみます。私は HSP(ハイリ―センシティブパーソン)。娘もHSCかと思ったらASDと。

SNSが発展したり「効率化」が重視される社会でも「人の温かさ」や「情」を忘れず生きていきたい

最近、奈良県の重度心身障害があるご夫婦のドキュメンタリーを見ました。

たまたまYouTubeで流れてきたのですが、お子様がいらっしゃるのですね。

 

参照:https://www.youtube.com/embed/Be1v-ei6ioE

重度障がい者夫婦が結婚、出産、子育て「ふつうのままで~ある障がい者夫婦の日常~」(1999年4月18日放送 国際エミー賞ドキュメンタリー部門最優秀賞受賞 リメイク版)

 

1999年につくられたドキュメンタリーなのでかなり前ですが、この中では小学生になるお子さんを育てておられました。

 

これ、今の世の中ですとSNSで炎上するかもしれないのかな、なんて最初は思いました。

今って、全くの他人が、本当の生活を何も知らずに、第三者をネットでたたく時代です。

私自身も、障害のある子を持つと、ネットですごく辛辣な言葉が目に留まるようになりました。

「障がいのある人は子どもを持ってはいけない」

「障がい児を生んだ親が悪い」

「生産性のない人間は生きていてはいけない」

 

・・・。

今の世の中、ここまでになったかと、驚きました。

 

こうした気持ちは、持っている人がいることは承知しています。

昔から、言われてきた言葉ですよね。おそらく。

でも、今はネットでそれを大きな声にして平気で書いてしまう時代。

そして、その声が、リアルなその対象者の人の生活に多大な影響を与えてしまう時代です。

 

「両親ともに重度障害をもって、ヘルパーさんの力をかりて生活し、

子育てをしている」ということだけを見ると、おそらく今なら炎上しますね。心無い方から攻撃されるかも。

しかし、このドキュメンタリーを最後まで見たら、それがやや違ってみえます。

詳しくはぜひ動画を見て欲しいのですが、子供の頃から家族に家の外へ出ることをゆるされず、学校にも行かせてもらえなかった。

ずっと独り言をいいながら部屋にいた。

これで人生終わりたくないと思った・・・など。

 

自分がそうだったら、どうだ?と思うような、涙がでそうになるような言葉が並んでいます。

私自身は少しだけ福祉畑にいたことがあるので、重度心身障害のある方との接点は少ないながらも、障害者をとりまく大変なことだけは、ちょっと想像できる。

だから、多くの方とは違うかもしれない。他の人はそんなに理解がないかもしれない。

でも、目の前で生の声で、こういわれたら。

きっと、ドキュメンタリーに出てきた人みたいに、本能的に手を貸すと思うんですよね。

困ってるから、ママ友として思わず手を貸す、とかもエピソードに出てきていましたが、私もやると思います。

生産性とか、時間の効率化とかでいうと、困っている人に手を貸して、一円ももらわないなんて、今の時代の考えだとナンセンスではないですか。

でも、たぶんやりますね。

 

現に、うちの子の支援学級のクラスメイトには、かなり特別な手助けを必要とする子もいて。

その子の親は結構大変で、私も手伝ったり、悩みを聞いたりランチに行って話したりします。

でもそれは、私もその人に悩みを聞いてもらったり、愚痴ったりさせてもらってる。

しかも、かなり子供が小さい時から療育が一緒なので、もう手を貸すのが当たり前というか、自然と「こうしたらいいんだ」ってわかるから、自然とやるっていう感じですよね。

 

そう、人間「こうすればいいんだ」って知ってたら、すっと助けてしまうんです。体が動いてしまう。

そこは損得勘定ではない、友情ですよね。

 

ただ、コストがかかったり、持ち出しでお金がいるような支援は、やはり行政サービスの手をしっかりかりて、やるのがよいこともある。

でも、それでは足りなくて、現に目の前で困ってたら、特にそれが小さい子のかかわることなら、ほっとけないって気持ちがわかります。

このドキュメンタリーの夫婦の奥さんが困ってるのは、ママ同士だったら、痛いほどわかることだったりしますもんね。

子どもの沐浴とか、そういうのをできないってわかったら、「それはやばいよ!助けるよ!」って思っちゃう。

 

もちろん、助ける余裕がない人は無理です。

私も持病があったりするのと、時間に余裕がないときは、他のママのことをかまってあげられない時もある。

でも、もしちょっと余裕があるとき、体調の良いときは、困ってたら手を貸せる。

 

このご夫婦も、「ちょっとずつ、手伝ってほしい」という感じでボランティアとか支援者を自分で声をかけたりして集めてて。

ただ一緒にお酒を飲んでいく友人とか。

ちょっと誰もヘルパーがこれないときに飛んでくるママ友とか。

月に何度かだけ寄って料理してくれる子たちとか。

 

助けるって、身体介護だけじゃないんですね。

行政サービスだけが福祉でもない。

「一緒に何かやる」「いっしょにいる」「スポット的に手を貸すだけ」でも、その人の生活を毎日まわしていくために役立つんですね。

 

ご夫婦の旦那さんの方が「障害者は主張をしないと殺される(生きていけない)」のようなことをおっしゃっていたのが印象的でした。

 

たくさん支援者がいるけど、それは必死でご夫婦が助けを求めて集まった人たち。

人って、人とのつながりがないと、「システム」がどれだけ増えても、なかなか生きていけないのだと気づかされます。

 

福祉サービスとか、カウンセリングとか、医療とか。

それらがどれだけ整っても、増えても、きっとカンペキには生活をカバーできないんですよね。

物理的にも、気持ち的にも。

ちょっとずつ、お互いにできることを助け合って、暮らしていける。

(あれです、金八先生の「人という字はぁ~人と人とが支え合い~」ってやつですね。)

 

特に「心」の面では、コンピューターやITがどれだけ進歩しても、埋められないものがあると感じました。

「気持ち」と「気持ち」のやりとりが伴わないと、人間ってなんだか虚しさを感じるように思います。

 

私はここ2年以上、コロナ禍で在宅ワークをしていましたが、本当に子供の園や学校の送迎で出ないと、世の中から「リアルには」隔絶されてしまう生活でした。

ネット上ではたくさんの人とつながってるんですけど。

毎日、たくさんの人と、仕事のやりとりのチャットをしますし、SNSYouTubeを見てはたくさんの見知らぬ人に「いいね」して、その視点や生活を垣間見させてもらい、世界が広がって。

障害児育児仲間や在宅ワーク仲間も、SNSでたくさんできました。

 

でも、コロナのデルタ株流行のひどい時期は、家にばかりいたり、イベントや行事も全部なくなって、「温度」が感じられないことがありました。

「人の温かさ」をリアルに感じるのは、生協さんやスーパーの人と話す時だけ、だったりする。

夫や子供とは話しますけどね。

他人の考えていることや、困りごと、楽しんでいること、悲しんでいること、嬉しいこと、良かったこと・・・そういうのを、あまり感じ取れない生活でした。

他の「外の世界」を、温度感を感じにくくなりました。

すると、数少ない人との接点で、なにか気になる言葉をいわれたり見かけたら、疑心暗鬼になったり、悪い方にとらえそうになるんですよね・・(なんなんでしょう、あれ)。

ちゃんともう少し話せば、誤解だったり私の妄想だったり(!!)するとわかるのに。

「(もっとつっこんで)話せばわかる!!」なのに。

遠慮しちゃって聞けなかったり、距離をおいてしまんですよね(距離をおくのがネット上やテキストでは楽にできるから)

 

そして、その感覚は、コロナの行動制限が弱まってきた今でも、なんだか継続していて。

文字の「テキスト」でしか、他人に触れない世界にずっといて。

在宅ワークの特殊な「温度を感じにくい世界」の住人に。

 

世間的にも、そういう傾向があるように感じます。

ワイドショーに取り上げたり、ネットでバズって世に流れてくる情報は、SNSでの話題など。

リアルで起きたことが、それだけなら社会の一角でおきたことでも、「効率化」や「生産性」「正義」「常識」「正しさ」を求める人に攻撃されることがおきやすくなっています。

 

テキストだと、実情の全てが見えないんですよね。

「書いてないけどこんな面もあって」というのが、見えない。

書いてあることだけを参考に、評価され、意見を出される。

でももしも「実はこんな面もある」のところが色々知れたら、そこまで人は攻撃しないのではないでしょうか。

そして、その「実はこんな面も、あんな面も、こんな事情も、」のところこそ、「温度」なんだと思う。

 

在宅ライターをしているとひしひしと感じますが、世の中「実績」や「結果」が優先される社会です。

仕事なら当たり前です。

数字を出すのが、仕事ですからね。

そこへの対価が、お金として払われる。

そうでないと社会は成長しません。

 

でも、「すべて」を生産的か、非生産的か、効率的か、勝てるか、という観点でみると、排除ばかりになると思います。

自分の考えとは違う人を自分のかかわる世界から排除する感覚がすすむと、「人の温かみ」が見えなくなってしまうように思うんですよね。

人間、ダメな面もあれば、優しい面もある。そういう、多面性がある生き物なので、「だめな面」「世の中に勝てない特徴のある面」を排除すると、ほとんどの人を自分から遠ざけるようになってしまいます。”許せないから”って。

これは社会全体が先細っていく原因にもなるでしょうし、「ネット上ではたくさんの人に評価され、つながっているけれども心が孤独」な人も増えるでしょう。

 

そこで参考にしたいのが、このドキュメンタリーのご夫婦が住んでいる関西のユーモアや人情の視点。

非関西圏に生まれ育った私から見ると、すごく人情があります。

もちろん、いろんな方がいると思うので、ひとくくりにはできませんが、あの人の温かさや人情は、かけがえのないものですね。

「つくろう」と思っても、なかなか定着しません。とくに都会では貴重です。

うまくいえませんが、「ふわっと、許容する」とか「なんとなく、かかわる」とか、そういう「白黒はっきりつけないこと」が都会より受け入れられるというか。

(伝わらないですよね、すみません・・・)

 

これからネット社会、IT技術の進出が進めば便利ですが、この「人情」とか「あたたかさ」は、人が失ったらまずいものだと感じます。

 

機械の世界は効率的。効率は経済成長でもかなり重要。

しかし、本当に人が求めているのはそこだけなのか?と最近ひしひしと感じられてやみません。

 

まずは、私自身がまわりとゆるく助け合える人でいたいし、子供の失敗もユーモアをもって笑える人でいたい。

本当に困ったら、自分から「助けて!手伝って!」といえるようになりたいし、そのために普段から人にも優しくしたい。

 

ライターとしても、どこか「あたたかみのある文、読んで為になるだけでなく、ちょっとホッとする文」をこころがけたい。

文章にちょっとだけ、読んだ人が前に進めるようなエネルギーをもった言葉を入れて書きたい。

(無駄な言葉はいらないって言われることもおおいですけどね(笑)ライティングでは。でも許される範囲で入れたい・・・)

 

そんな風に気づかされました。