地方のかたすみでちょっと想う~HSPな視点から~

結婚して西日本のまあまあ田舎に住み始めました。 マイペースに地方の片隅で日々育児をしながら家事をしながら、想うことを健忘録的にかいてみます。私は HSP(ハイリ―センシティブパーソン)。娘もHSCかと思ったらASDと。

自閉スペクトラム症の遺伝

娘がASDと診断されてから、ずっと考えてしまうことがある。

それは「遺伝のせいだろうか?」ということ。

 

自閉スペクトラム症は、遺伝も関係するといわれる。

もちろん、100パーセントが遺伝のせいではない。

環境因子などもある。

 

しかし、療育先などではよく、兄弟そろって発達障害、とか見る。

ネットでは「親子で発達障害」とかも見る。

ゆえに、高い頻度で遺伝が関係していると私には思われる。

 

そこで「うちはどうなのか?」。

 

母である私自身もこだわりはまあまああるし、感覚が繊細だし、デリケート。

打たれ弱い

視野も狭いと思う。

また私の両親も、父はかなりの引っ込み思案だし、母は多動気味。私の兄弟も多動気味だった。

 

夫の方はどうか。

お義父さんと夫の兄弟がなかなかの個性派。いやかなりの個性派。

夫はあかるいオタク気味。

夫の方の親戚は全員、あかるいKY(くうきよめない、気を使えない、マイペース)。

 

これね、どちらからも要素を娘は受け継いでるよね~・・・

 

ただ一般的には、自閉スペクトラム症は、父親の遺伝を強く受け継ぐといわれています。(母親からよりも割合が高い)

 

遺伝子に近年なんらかの環境要因が自閉症誘発をするものがあって、影響をうけているとも。

 

これね、私はもう、子育てが辛すぎるときは、内心かってに「パパのせいだよ」と思ってます(笑)。

もしかしたら私の方の遺伝かもしれないですけどね。

なんだろ、「パパのせいだよ」と思うことで、しょうがいないなーと思えるっていうか。

どうせ、パパはなにも子育ててつだってくれないですからねー

それくらい思わないと、ストレスがたまってやりきれない。

手伝わないなら、パパのせいだと思わせろーってことです(笑)。

 

別に、もしパパの(遺伝子の)せいだとしても、パパを嫌いになるわけじゃないんで。

パパの個性的なところを好きになったわけだから。

ただね、「パパからうけついだ(かもしれない)特性のせいで大変なことは、パパも手伝いなさいよね」と思ってます、内心( ´∀` )

 

それくらい思ってもいいじゃないですか?

口には出しませんから。

それくらいゆるしてくれー!!

 

まあ、むすめは今日も、わたしの口癖をまねしてくるんですけどね。

これは私のせい(笑)、はいすみません・・・

 

 

 

SNSが発展したり「効率化」が重視される社会でも「人の温かさ」や「情」を忘れず生きていきたい

最近、奈良県の重度心身障害があるご夫婦のドキュメンタリーを見ました。

たまたまYouTubeで流れてきたのですが、お子様がいらっしゃるのですね。

 

参照:https://www.youtube.com/embed/Be1v-ei6ioE

重度障がい者夫婦が結婚、出産、子育て「ふつうのままで~ある障がい者夫婦の日常~」(1999年4月18日放送 国際エミー賞ドキュメンタリー部門最優秀賞受賞 リメイク版)

 

1999年につくられたドキュメンタリーなのでかなり前ですが、この中では小学生になるお子さんを育てておられました。

 

これ、今の世の中ですとSNSで炎上するかもしれないのかな、なんて最初は思いました。

今って、全くの他人が、本当の生活を何も知らずに、第三者をネットでたたく時代です。

私自身も、障害のある子を持つと、ネットですごく辛辣な言葉が目に留まるようになりました。

「障がいのある人は子どもを持ってはいけない」

「障がい児を生んだ親が悪い」

「生産性のない人間は生きていてはいけない」

 

・・・。

今の世の中、ここまでになったかと、驚きました。

 

こうした気持ちは、持っている人がいることは承知しています。

昔から、言われてきた言葉ですよね。おそらく。

でも、今はネットでそれを大きな声にして平気で書いてしまう時代。

そして、その声が、リアルなその対象者の人の生活に多大な影響を与えてしまう時代です。

 

「両親ともに重度障害をもって、ヘルパーさんの力をかりて生活し、

子育てをしている」ということだけを見ると、おそらく今なら炎上しますね。心無い方から攻撃されるかも。

しかし、このドキュメンタリーを最後まで見たら、それがやや違ってみえます。

詳しくはぜひ動画を見て欲しいのですが、子供の頃から家族に家の外へ出ることをゆるされず、学校にも行かせてもらえなかった。

ずっと独り言をいいながら部屋にいた。

これで人生終わりたくないと思った・・・など。

 

自分がそうだったら、どうだ?と思うような、涙がでそうになるような言葉が並んでいます。

私自身は少しだけ福祉畑にいたことがあるので、重度心身障害のある方との接点は少ないながらも、障害者をとりまく大変なことだけは、ちょっと想像できる。

だから、多くの方とは違うかもしれない。他の人はそんなに理解がないかもしれない。

でも、目の前で生の声で、こういわれたら。

きっと、ドキュメンタリーに出てきた人みたいに、本能的に手を貸すと思うんですよね。

困ってるから、ママ友として思わず手を貸す、とかもエピソードに出てきていましたが、私もやると思います。

生産性とか、時間の効率化とかでいうと、困っている人に手を貸して、一円ももらわないなんて、今の時代の考えだとナンセンスではないですか。

でも、たぶんやりますね。

 

現に、うちの子の支援学級のクラスメイトには、かなり特別な手助けを必要とする子もいて。

その子の親は結構大変で、私も手伝ったり、悩みを聞いたりランチに行って話したりします。

でもそれは、私もその人に悩みを聞いてもらったり、愚痴ったりさせてもらってる。

しかも、かなり子供が小さい時から療育が一緒なので、もう手を貸すのが当たり前というか、自然と「こうしたらいいんだ」ってわかるから、自然とやるっていう感じですよね。

 

そう、人間「こうすればいいんだ」って知ってたら、すっと助けてしまうんです。体が動いてしまう。

そこは損得勘定ではない、友情ですよね。

 

ただ、コストがかかったり、持ち出しでお金がいるような支援は、やはり行政サービスの手をしっかりかりて、やるのがよいこともある。

でも、それでは足りなくて、現に目の前で困ってたら、特にそれが小さい子のかかわることなら、ほっとけないって気持ちがわかります。

このドキュメンタリーの夫婦の奥さんが困ってるのは、ママ同士だったら、痛いほどわかることだったりしますもんね。

子どもの沐浴とか、そういうのをできないってわかったら、「それはやばいよ!助けるよ!」って思っちゃう。

 

もちろん、助ける余裕がない人は無理です。

私も持病があったりするのと、時間に余裕がないときは、他のママのことをかまってあげられない時もある。

でも、もしちょっと余裕があるとき、体調の良いときは、困ってたら手を貸せる。

 

このご夫婦も、「ちょっとずつ、手伝ってほしい」という感じでボランティアとか支援者を自分で声をかけたりして集めてて。

ただ一緒にお酒を飲んでいく友人とか。

ちょっと誰もヘルパーがこれないときに飛んでくるママ友とか。

月に何度かだけ寄って料理してくれる子たちとか。

 

助けるって、身体介護だけじゃないんですね。

行政サービスだけが福祉でもない。

「一緒に何かやる」「いっしょにいる」「スポット的に手を貸すだけ」でも、その人の生活を毎日まわしていくために役立つんですね。

 

ご夫婦の旦那さんの方が「障害者は主張をしないと殺される(生きていけない)」のようなことをおっしゃっていたのが印象的でした。

 

たくさん支援者がいるけど、それは必死でご夫婦が助けを求めて集まった人たち。

人って、人とのつながりがないと、「システム」がどれだけ増えても、なかなか生きていけないのだと気づかされます。

 

福祉サービスとか、カウンセリングとか、医療とか。

それらがどれだけ整っても、増えても、きっとカンペキには生活をカバーできないんですよね。

物理的にも、気持ち的にも。

ちょっとずつ、お互いにできることを助け合って、暮らしていける。

(あれです、金八先生の「人という字はぁ~人と人とが支え合い~」ってやつですね。)

 

特に「心」の面では、コンピューターやITがどれだけ進歩しても、埋められないものがあると感じました。

「気持ち」と「気持ち」のやりとりが伴わないと、人間ってなんだか虚しさを感じるように思います。

 

私はここ2年以上、コロナ禍で在宅ワークをしていましたが、本当に子供の園や学校の送迎で出ないと、世の中から「リアルには」隔絶されてしまう生活でした。

ネット上ではたくさんの人とつながってるんですけど。

毎日、たくさんの人と、仕事のやりとりのチャットをしますし、SNSYouTubeを見てはたくさんの見知らぬ人に「いいね」して、その視点や生活を垣間見させてもらい、世界が広がって。

障害児育児仲間や在宅ワーク仲間も、SNSでたくさんできました。

 

でも、コロナのデルタ株流行のひどい時期は、家にばかりいたり、イベントや行事も全部なくなって、「温度」が感じられないことがありました。

「人の温かさ」をリアルに感じるのは、生協さんやスーパーの人と話す時だけ、だったりする。

夫や子供とは話しますけどね。

他人の考えていることや、困りごと、楽しんでいること、悲しんでいること、嬉しいこと、良かったこと・・・そういうのを、あまり感じ取れない生活でした。

他の「外の世界」を、温度感を感じにくくなりました。

すると、数少ない人との接点で、なにか気になる言葉をいわれたり見かけたら、疑心暗鬼になったり、悪い方にとらえそうになるんですよね・・(なんなんでしょう、あれ)。

ちゃんともう少し話せば、誤解だったり私の妄想だったり(!!)するとわかるのに。

「(もっとつっこんで)話せばわかる!!」なのに。

遠慮しちゃって聞けなかったり、距離をおいてしまんですよね(距離をおくのがネット上やテキストでは楽にできるから)

 

そして、その感覚は、コロナの行動制限が弱まってきた今でも、なんだか継続していて。

文字の「テキスト」でしか、他人に触れない世界にずっといて。

在宅ワークの特殊な「温度を感じにくい世界」の住人に。

 

世間的にも、そういう傾向があるように感じます。

ワイドショーに取り上げたり、ネットでバズって世に流れてくる情報は、SNSでの話題など。

リアルで起きたことが、それだけなら社会の一角でおきたことでも、「効率化」や「生産性」「正義」「常識」「正しさ」を求める人に攻撃されることがおきやすくなっています。

 

テキストだと、実情の全てが見えないんですよね。

「書いてないけどこんな面もあって」というのが、見えない。

書いてあることだけを参考に、評価され、意見を出される。

でももしも「実はこんな面もある」のところが色々知れたら、そこまで人は攻撃しないのではないでしょうか。

そして、その「実はこんな面も、あんな面も、こんな事情も、」のところこそ、「温度」なんだと思う。

 

在宅ライターをしているとひしひしと感じますが、世の中「実績」や「結果」が優先される社会です。

仕事なら当たり前です。

数字を出すのが、仕事ですからね。

そこへの対価が、お金として払われる。

そうでないと社会は成長しません。

 

でも、「すべて」を生産的か、非生産的か、効率的か、勝てるか、という観点でみると、排除ばかりになると思います。

自分の考えとは違う人を自分のかかわる世界から排除する感覚がすすむと、「人の温かみ」が見えなくなってしまうように思うんですよね。

人間、ダメな面もあれば、優しい面もある。そういう、多面性がある生き物なので、「だめな面」「世の中に勝てない特徴のある面」を排除すると、ほとんどの人を自分から遠ざけるようになってしまいます。”許せないから”って。

これは社会全体が先細っていく原因にもなるでしょうし、「ネット上ではたくさんの人に評価され、つながっているけれども心が孤独」な人も増えるでしょう。

 

そこで参考にしたいのが、このドキュメンタリーのご夫婦が住んでいる関西のユーモアや人情の視点。

非関西圏に生まれ育った私から見ると、すごく人情があります。

もちろん、いろんな方がいると思うので、ひとくくりにはできませんが、あの人の温かさや人情は、かけがえのないものですね。

「つくろう」と思っても、なかなか定着しません。とくに都会では貴重です。

うまくいえませんが、「ふわっと、許容する」とか「なんとなく、かかわる」とか、そういう「白黒はっきりつけないこと」が都会より受け入れられるというか。

(伝わらないですよね、すみません・・・)

 

これからネット社会、IT技術の進出が進めば便利ですが、この「人情」とか「あたたかさ」は、人が失ったらまずいものだと感じます。

 

機械の世界は効率的。効率は経済成長でもかなり重要。

しかし、本当に人が求めているのはそこだけなのか?と最近ひしひしと感じられてやみません。

 

まずは、私自身がまわりとゆるく助け合える人でいたいし、子供の失敗もユーモアをもって笑える人でいたい。

本当に困ったら、自分から「助けて!手伝って!」といえるようになりたいし、そのために普段から人にも優しくしたい。

 

ライターとしても、どこか「あたたかみのある文、読んで為になるだけでなく、ちょっとホッとする文」をこころがけたい。

文章にちょっとだけ、読んだ人が前に進めるようなエネルギーをもった言葉を入れて書きたい。

(無駄な言葉はいらないって言われることもおおいですけどね(笑)ライティングでは。でも許される範囲で入れたい・・・)

 

そんな風に気づかされました。

 

過敏性腸症候群の人は自分に合った環境で仕事を。無理しなくていい

私は過敏性腸症候群IBS)のある在宅ライターです。

ガス型とか便秘型とかあるみたいですが、私はお腹を下すタイプです。

 

そもそも在宅ライターをはじめた理由はIBSに関係なく、「子供を見ながらスキマ時間で少しでも仕事できたらいいな」という思いから。

たくさん稼ぎたいというのではなく、もともと文を書くのが好きだから、それがお仕事になったら楽しいな、幸せだな、と思ってクラウドソーシングを知ってやってみた感じですね。

 

それでやりはじめたらたのしいし、お小遣い程度は稼げるのでうれしくてハマった、というところ。

ただ最初は未就園児がいたからお昼寝してくれる時や一時保育を運よく利用できた日にやっていたので、ほんとに少しだけの稼ぎでした。

 

で、今となっては「やっててよかった!」です。

その後、娘が3歳になる前くらいから私が過敏性腸症候群を発症。

頻繁にトイレに行かなければならない状態になり、メンクリにもいって薬をのむことに。(しかし薬は眠気が強いので、運転する日は飲めない)

田舎で運転に支障が出るとか、業務中にトイレにとじこもってばかりというのは致命的に仕事先がないわけです。

だから「そろそろ仕事を」とおもっても、外で働くのが無理に思えました。

 

実際にIBSの事例を調べてみても「とにかく仕事中にトイレにいくのが困るから治療したい」と言う人が大半なのだとか。

わかる(´;ω;`)

大丈夫なときはなんともないんですよ、でも一旦症状がおきると、結構長い時間、トイレとお友だち状態になるんですよね。

さらに「早く業務に戻らなきゃ」なんて思ったら、そのプレッシャーでまたお腹がいたくなるでしょう・・・

これはつらい。

見た目でわかるものではないので、「あいつぜんぜん普通なのになんで肝心なときに腹痛でいなくなんだよ💢」なんて思われてしまいそうで、辛いですよね。

 

皆さん病院かよったりいろいろ対策をたてて過ごしていらっしゃるんだと思いますが、先日衝撃の事実を発見してしまいました。

 

過敏性腸症候群障害年金の対象」ということ!

程度によると思いますが、事例として3級程度の年金等級の対象になったケースがまずまずあるらしいです。

 

ということはIBSは障害にもカウントされる状態ってことか・・・

 

もちろん「ちゃんと検査して、その上で十分に働けないほどひどいと医師が診断すれば」といったことでしょうが、私にとっては結構驚きでした。

そうか、私がトイレにかけこむから外でのお仕事には就かないって判断したのは、あながち間違った選択ではないのか、と。

 

私は発症時にすでに在宅ライターを開始していたので、そのまま娘も保育園に入れてwebライターを続けています。

 

しかしそれでも、たびたび症状が起きたり「あやしい(症状が出そうな万全でない)」体調になったりするので、思ったほど働けてないんですよね・・・

(他のママが外で就職して働いてれば、もっと稼げてるはず)

 

症状がでないときは元気だけど、出る時期はたびたびずっとトイレにいることになるので(しかも娘を車で送迎するためにメンクリの眠気が出る薬はのめないので、セレキノンで我慢)、仕事をゆる~く・納期長めのものをいれている感じです。

 

この状況、「まるで精神障害がある心身が不安定になりやすい人の働き方に似てるな」とは何度も思ったことがあるのです。

(彼らは体調を考えて短時間パートだったり契約社員で働いていることがままあるし、体調の波に理解がある職場でないと働きにくいという悩みがある)

 

そうか、IBSは、一種の障害と同じような体の状況と思って無理せず自分のペースで働いていいんだ、と気づきました。

 

根がまじめなので、「思ったほど稼げてない、働けてない」ということへの罪悪感が結構ありまして、それがストレスになってさらに発症に向かう、ということもあり。

 

私がヘタレゆえかと思っておりました。

 

いや、これ同じ状況になったら、誰だって「目一杯仕事を詰め込もう」なんて思わないよね、そりゃそうか。(職場に迷惑をかけたくない人ほどそうだろう)

 

目一杯仕事をつめこめるのは、心身ともに健康だからですね。

もちろん、体調管理に万全を期して活躍されている方はたくさんいるでしょうが、自分の病気や障害に合わせてペースを整えるのも、自己管理としては大事なことですね。

 

過敏性腸症候群の人は、無理しなくていいんですよね。

私もそうしてるような、自分に合った環境で仕事できる場を探す。

バリバリ仕事できなくても、自分ができる量の仕事やペースで社会の役に立って収入を得る。あるいは改善するまでとにかく休養する。原因となるストレスから離れる。

 

その判断は、ハンディをもちながら自分で調べてたどりついた道ですから、「あまり稼げてないし」とか卑屈におもわず、堂々とやっていきたいところです。

そして、体と上手にこれからもつきあって、人生も楽しみたいですね。

小学生だけどトイレで大ができないASD娘

小学校1年生になったASDの娘。

二学期に入りましたが、週1~2日は「行きたくない」を炸裂させながら、たまに休みますがなんとか行っています。

先生方のご支援に感謝しきりです!

 

初めての校外学習へも参加。

考えてみれば、生まれて初めて半日以上、親のいない状態で「バス」に乗り、学校という安心拠点からかなり離れた「初めての場所」へ行ったわけです。

 

保育園時代はコロナ禍であったこともあり、遠くへの遠足はなく地域のお祭りなどへの参加プログラムもなし。

行くとしたら近くの公園でピクニック、程度です。

 

なので直前になって親は「大丈夫かな!?」と心配になり、担任の先生と不安点を相談したりもしました。(初めての場所でのこだわり、車酔いなど)

 

でも心配は杞憂におわり、無事元気いっぱいで楽しんできたので、「成長したなあ!」と思ったものです。

親がいない状況では、意外としっかりできるのかしら(^^;)

学校の友だちや先生が、あたらしく娘にとって「いつも一緒で安心できる相手、頼れる相手」になっていっているのかもしれないな、と思ったり。

 

 

そんな娘の目下の悩み事。

というか、親の悩みなのですが…大のほうだけトイレで出来ないことですね。

※以下、トイレ関係なので読みたくない人はそっと閉じてくださいm(_ _)m

 

小学生になって、ストレスなのか寒さなのか、たまに外出先で腹痛を訴えることがあります。

そんなとき、ふつうならトイレに行ってみればいいのですが、娘はおうちでも外でもトイレで大ができないので、詰んでしまうんですね・・・

大抵はストッパとかを飲んでお腹にカイロをはってさすってやると、しばらくしたらおちつくのですが。

できればトイレでできるようになってほしい。

学校では最悪保健の先生と対応していただけるのかもしれませんが、まわりの生徒の反応もよくないでしょうし、排せつの関係でのトラブルはなるべく生じないようにしてあげたいところ。(いじめの対象になってもいけないし(-_-;)…)

 

自分も過敏性腸症候群なので、火急の状況で下痢をしそうになったときにトイレでできないのは心配すぎて。

家族で外出の際は、万一の時のために私の荷物には常に娘のズボンと下着、おねしょパットとおむつ、「おむつにおわない袋」、捨ててもいいタオル、カイロ、薬が入っています。

これだけ用意してるので、心配な時はおねしょパットをつけさせておいて、最悪の事態の時は多目的トイレでキレイに取り換えてやればいいんですけどね、分かってるんですけど。

でもね、地味に重いんですよこれ・・・

(私の大人のおむつや、お腹が冷えた時に飲むホットのお茶いれた水筒も自分の腹痛に備えてはいってたりしますけど・・・)

まあ大抵車で移動するので、車で運べるのですが、ショッピングにいくとしてもお店では私が荷物をもって歩くわけで。

自分が心配性なHSPなもんで、これを持ってないと不安で、いつまでも持ち歩いてるのもありますけど。

重い・・・赤ちゃんの頃の荷物よりはマシだけど、これいつまで続くの( ;∀;)

 

 

なので、早くトイレでできるようにならないかな、と心まちにしています。

あまり親が焦って強要すると逆にこじれるとかいいますから、できれば自分で決断してやってほしい。

ネット記事とかみると「自分でおむつはよくないと思ってトイレでするよう心を決める」場合と、「宿泊学習や祖父母宅へ単身お泊りなどのイベントでやむをえず卒業」の2パターンがあるのだとか。

高学年でおむつはなかなかいなくなる、というけど、ほんとうかな。

でもまあ、たしかに、保育園のとき、1度だけ「腹痛があってやむをえず先生の促しにしたがってトイレで大ができた」ことがあったので、

やろうと思えば、切羽詰まったらできるのかもしれない。

ただできればそれが「常」になってほしい・・・( ´∀` )

そして自分でおしりをふけるようになってくれ☆彡

 

物価高ですからね、おむつ代もはんぱないのですよ・・・

できそうな雰囲気はあるのです。母は感じるのです。

だから、トイレをかわいくしたり、便座に座ってるあいだに楽しめるように工夫したりしたうえで「おむつはもうかわないようにしようかな」とジャブを打ってみています(やんわりと)。

せめて、お腹が痛くなった時にトイレに行こう!と思ってくれ・・・

 

それが、今の母の願いです。

 

まあ、見学に行けたように、学校の力もかりながら、まわりのお友だちに感化もされながら、ゆっくりできるようになってくれればいいのですがね。

よろしくおねがいしますよ~★★

 

 

 

発達障害の子の親は、24時間体制で365日、警備員をやっているようなもの。

最近、発達に課題を持つのかな?というお子さんの行方不明の事件が多々起こっており、うちも他人ごとではありません。

 

うちの子はASDですが、多動っぽさ(どちらかというと不注意ですが)もあります。

なによりワーキングメモリが弱く、さっき言いきかせたこともすぐ忘れがち。

 

こだわりが強く感覚過敏もあり、定型児よりも不快に思うことが多く。

気になることがあれば意識はそっちに集中してしまって、思い立ったが吉日といわんばかりに即座にそっちの方向に一直線。

 

それをこちらに向けるには、「さっき言ったよね」ではなく、繰り返し言い聞かせる、視覚でパッと次に何をするか分かるように、絵や言葉で示すようにしないといけない。

 

玄関を一人で出てしまった、という事件が時々ありますが、うちは6歳の時でもありました(庭に出てただけですが)。

小さい時だけのものではありません。

1人で出ても判断して危険を回避して帰ってくれる知恵が備わるまで、発達障がい児の親はずっと警備員のごとく監視しなければなりません。

例え夜でもです。

 

うちは私と娘が寝ますが、気を緩めると一人で娘が1階におりてることがあるので、気が抜けません。

出ようと思えば夜中でも外に出れてしまうので。

 

なので、ちょっとの物音でも目が覚める日々なのですが、まあ主人はガーガーいびきをかいていつも寝てますね。

 

娘を寝かしつけてと頼んでいても、旦那が先に寝入ってしまい、娘が一人で降りてくることも多々あります💦

 

発達障がい児を育てる上での疲れは、この「24時間365日、警備員をしないといけない」というのが大きいですね。

 

もちろん、癇癪への対応や、それを回避するための努力、偏食への対応、安全確保、医療へのアクセス、福祉や学校との調整など、やることは山ほどありますが、この「気を抜いたら子供が死ぬ」のがずーっと続くのがつらいです。

 

定型児さんは、年齢があがるとそこそこの危機回避とか安全確認の力がついていくと思うのですが(個人差はあるけど)、発達障害の子はほぼ本能的に動くので(笑)、いつもと違うとパニックになるし、思いついたら止められないし、そういうところを克服できる力がつくのが平均的な発達の子より時間がかかるんだと思うんです。

だから、それまでは、周囲の助けも得ながら親は耐えていくしかないのですが、この「気を抜いたら死」という切迫性を、例えば私の親でもなかなか理解してくれない。

 

一度娘を預けたことがあるのですが、案の定、嫌なことがあると玄関から出ていこうとしたそうで、高齢の親だけでは止めるのが大変だったと。

 

それ以来、やはり親もたよれないな、と思いました。

 

幼児のころなら、体も小さいし、行動範囲も狭いので高齢者でも簡単に押さえたり抱えたりできるけど、大きくなると意思も強いし、重たいし力が強いですしね・・・。

 

そしたら、もうこっちはメカとか使って、対処するしかないので、GPS用意したり、万一のために近所のママさんたちの連絡先も聞いておいたり、学校と仲良くしておいたりですよね(笑)・・・。

 

そのために、近所の子との交流も、子供会とかはちょっとの間だけでも参加させるようにしてるし(途中で離脱するとしても💦)、服という服には、保育園時代のように名前を書いておくようにしている。

 

聞いていなくても、「もしママとはぐれたらこうするんだよ」と一応言い聞かせている。(一度聞いたことは忘れない子なので、万一の時にもしかしたら思い出すかもしれないので)。

 

もう、やれる努力は全部しています。

 

正直、これだけやって何かあったらもう神様にお願いするしかないくらいです・・・。

 

だから、発達に課題があると思われる子がいなくなった事件で、親を責めないであげて欲しい。

 

いちいち表明しないけど、たぶん、できるだけのことをみなさんされていると思いますよ。

身を削って。一生懸命対応されていたはずです。

わたしは、そう思います。

 

そしてもしそんな迷子のお子さんをみつけたら、ぜひ前に行って、えがおで、大声ではなくやさしく「こまってる?」と聞いてあげるといいのではと思います。

「どうしたの?」ではなく「イエス・ノー」でこたえられる、短い言葉で聞いてあげる。

大声で叫ばれるとおびえてどこかにいってしまうかもしれないので、やさしく。

視線を合わせるのが苦手な子もいるので、合わなくても気にせず、ほっぺのあたりでもみながら話してやって。

触られるのが苦手な子もいるので、ギュッとしたりはせず、近くでみまもってあげる。

それで安全を確保して、警察に連絡、が良いと思います。

 

どうか、辛い事件が減りますように・・・。

 

癇癪も役立つことがあるかもしれない?

我が娘はASDで、最大の困難は、激しい癇癪です。

 

成長し、少しずつ癇癪の回数は減りましたが、それでも時々激しく周囲の人を怯えさせるような癇癪を起します。

親は疲弊します・・・

 

しかし、小学生になり、最近私は思うようになりました。

 

軽度の知的な遅れ(境界域)もあり、自閉症の彼女は、これからいじめやからかい、女子なので性的嫌がらせに合いやすくなる可能性もある。

 

もしこれが、大人しくて反抗しないタイプの自閉症児だったら、されるがままになってしまうかもしれない。

 

しかし、たぶん娘の場合は、ちょっとでも嫌なことをされたら、めちゃくちゃ癇癪して暴れる。

 

日常の中でそれが起きるのは困るのだけど、万一の場合にめちゃくちゃに抵抗することができるのは、もしかしたらそれが身を助けることになる場合もあるかもしれない、と。

 

だって、あまりにも教育現場での教師や同級生による辛辣な行為が多いのです。ニュースを見る限り。

 

特に女児をねらった卑劣な犯行は増えているし、抵抗しないような子をねらってやっているような気がします。

 

知的なハンデがあると状況がわからなくて被害に遭う可能性もあるし、言葉で上手く説明できないと、されたことを親にもいえないかもしれない。

 

だから、何かされたら徹底的に癇癪する、というのは、ある意味身を守る方法かもしれないなと。

 

娘はめちゃくちゃおしゃべりでもあり、容赦なく言葉で親に反抗もするので、大人しいタイプではありません。

 

「男の人や男の子に触ってほしくない所をさわられたら、場所がどこだろうと相手が誰だろうとかまわないから大騒ぎしなさい」とも伝えてあります。

 

「たたかれたり嫌なことをされたら、たたき返すのはだめだけど大泣きしなさい」とも伝えています。

 

教育的な指導ではないかもしれませんが、こういう子には必要なことでもあると思うのです。

 

困るばかりの癇癪ですが、いざというときには、もしかしたら娘を守るかもしれない。

 

そう思うと、まあなんとか日々対応するしかないか、と思えてきました(笑)

ASD娘の 小1でできるようになったこと、まだむずかしい課題

娘が小学校に入学して4か月がたちました。

もうすぐ夏休み。

一学期、がんばりましたね!

 

今回は、ここまでで娘がどんなことができるようになり、どんなことがむずかしいのかを振り返ってみます。

 

現状の説明を先に。

 

現在ASDの娘は支援(情緒)学級に通学しており、国数以外は交流級で授業をうけています。

 

支援級では担任の他に、支援員の先生が毎日1~2名、クラスについてくださっています。

ただし支援員は勉強を教えることはできず、あくまで身辺のサポートというか、教室で過ごす間のフォローですね。

校庭に出てあそぶときに他の子とトラブルにならないかみたり、朝の準備や帰りの支度でうまくできていないときにちょっとフォローしたり。

たぶん授業中落ち着かない子にささっと声掛けしたりとかそういうのもしてくださっています。

 

<できるようになったこと>

・学校でメリハリあるスケジュールについていっている

(保育園の時は切り替えれずに園庭あそびから教室にはいれないとかが良くあったが、小学校ではチャイムがなるので良い合図になって切り替えられている)

・学校で朝の荷物の整理や帰りの支度が自分でできている

(周りの子をみながら、教えてもらってルーティンを獲得している、わからなければ支援員の先生に聞けるのが安心な様子)

・交流級でもなじんで授業を聞けている

(大勢がいると音や声が大きく感じて辛い時のために、イヤーマフを使えるようになっている)

・宿題をなんとかやっていっている

(帰宅後なかなかやらないが、寝るまでにはしなければならないとわかっているようで、夜になってからでもなんとかやっている)

・計算や音読、読み書きは今のところついていっている

・学校に送っていったとき、教室まで行く→昇降口でサヨナラ→車で降りてサヨナラに段階的に変化し、だんだん親がついていく距離が少なくなった

(自力で行くことはまだむずかしいが。自分でいくことについての質問もでるようになってきている)

・給食が時間内に食べ終えられなかったが、だんだん食べ終えられるようになった

・当番活動は積極的に責任感を持ってやれている

・交流級のクラスメートにも興味を持ち、名前を覚えてきている

・他学年との共同作業のときも、6年生のいう事を聞いてきちんとできている

・家で自分でジュースを用意したり、洗濯物を洗濯カゴにいれたり、明日のランドセルの持ち物用意、たまに料理の手伝いなどをするようになった

(できない日もあるが、こちらがいわなくてもやるようになったものもあり母はびっくり。自立心の芽生え?)

・知らない大人が集まる場では、嫌がることもあるが、マイペースに自分で過ごせることもある(前は100%の大癇癪だったことからすれば進歩!)

・小遣い帳をつけられるようになった

 

<できないこと(課題)>

・宿題をなかなかしようとしない

(ただし週1回の地域ボランティアと放課後過ごす日にはやって帰ってくる)

・トイレの完全自立

(大だけトイレでするのを嫌がることがある、大のあとお尻をふくのが苦手)

・文字を書くのが字が汚い

(薄かった筆圧はちょうどよく改善はされてきている)

・うわばきを週末に洗うのをいやがる

(専用の洗濯ネットにいれて洗濯機で洗うだけなのに!)

・遊んだ時に片付けない、親が棚にしまっているものを買ってに出してちらかして放りっぱなし

・お友達と話す時の話し方が独特(イントネーションとかアクセント?棒読み?とにかくなんか不自然。)

・登校しぶりがまあまあある。

 

以上のような感じです。

年長の頃に比べれば、できることは驚くほど増えました。

学校で教わるからでしょうが、娘にとっては、体系的にきまったルールとか枠があるのが、返ってすごしやすい面もあるのかもしれません。

(慣れてしまえば、見通しが立ちやすいから?)

一方で、こちらもあらかじめ予定をこまかく伝える努力をしています。

急な変更はパニックにつながるので、「~の予定になっているけど変更もあるかも?」みたいな。

支援級では予定もこまかく文字などで掲示されているので、これは助かりますね。

 

一方で、身辺の自立ですね。

学校で整理整頓できていても、家では甘えてできなかったり。

特におトイレの件は課題です。

ドクターには相談済で、まあ焦らないで、やる気をまちましょうねって言われてますが。

 

子どもの発達には、「同型性」と「多様性」があるらしいです。

 

同型性(どうけいせい)・・・同じ形、同じ法則で進む

多様性(たようせい)・・・ひとりひとりが個性的

※👆本田秀夫先生がYouTubeでおっしゃっていた

 

同型性は、何歳になったら、大体の子はこれができるようになるって話。

 

学校や保育園とかは、これを参考に構築された世界なんだと思います。

 

娘の場合は、同型性でできている場面と、本人にしかないペースでしか進めない場面があります。

 

それを否定してばかりいると、大人への信頼がなくなったり、ますますこちらに耳をかさなくなるでしょう。

 

無理強いではなく、難しい原因を取り除いたうえで、「やる気のある瞬間」を見逃さずに声掛けする、のを試したいです。

 

また小学校の内は、こどもによって発達スピードがまちまちで、特に女の子は早いと思うので、周りの女の子と比べずに、過去の彼女からの成長を見たいと思います。

 

支援級は、特に成長のスピードが個性的な子が、自分のペースでトライできる環境を作ってくださっているように思います。

 

先生に頼り過ぎてもだめだし、でも相談はしつつの、一番は子供自身の「伸びる力」を信じることかなと。

 

先生と情報共有して、「これはできる、ここは挑戦中、これができればなおよし」の確認を一緒にして、少しずつ伸ばせればと。

 

学校には本当に感謝しています。

いろいろ、個別の対応をしていただかないといけない場面もありますが、一緒に考えてくださったり。

支援級の先生は当たり外れがあるなんていいますが、今の先生には感謝しまくりです。

 

大切な一年生の時期に、すてきな先生に担当して頂いて、ラッキーだなと思っています。

 

親の私も、先生の姿をみながら、子供への対応を学んでいきたいと思います。